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他の人の下手な英語を気にしない

こんにちは。気まぐれです。

僕は北海道大学法学部の2年生なのですが、現在、北大の提供するプログラム、Hokkaidoサマー・インスティテュート (Hokkaido Summer Institute, HSI) に参加しています。

 

HSIは北大に世界各国からの生徒や研究者、教授を招いて、日本の教授や海外から来た教授が、北大で、英語で、北大生や海外から来た学生に対して講義を行うというものです。

ちなみにHSIは北大のプログラムなのですが、似たようなことは日本を含め世界中の大学で行われています。

 

僕が現在受けているのは「日本法入門 (Introduction to Japanese Law)」という授業で、期間は今週の月曜日から金曜日まで、授業数は計8コマ(1単位分)です。

この授業に参加している生徒には、北大生と中国、台湾、フィリピン、ロシアからきた人がいて、大体合計10人くらいです。

 

英語のレベルは教授によってまちまちですが、良くも悪くも日本人には比較的聞き取りやすいと思います。ただ、法学部の性質上、英語よりもドイツ語のほうが得意という先生が多いということもあり、つっかえつっかえ何とか頑張って伝えているといった感じの先生もいます。

それは少し残念なポイントかもしれないのですが、僕にとっては、逆にそれが大きな気づきに繋がりました。

 

それは、英語を話したり聞いたりする時に、上手いか下手かは気にしなくていい。

大事なのは何を伝えるかだということです。

そして、特に見過ごされがちなポイントとして、他の人の下手な英語を気にしないということです。

 

確かに授業を提供する先生は、人によってはかなりボロボロといっても過言ではないような英語を話すのですが、海外からオンラインで参加している人たちは、みんなそれを笑ったり、聞きづらそうにしたりするのではなく、全然気にせずに、ただただ真剣に聞いているのです。

そしてどんなに英語がボロボロな先生に対しても積極的に質問をして、返ってくるボロボロの英語を笑顔で聞いて、理解できないところがあればそこを聞きなおします。教授もなんとか伝えようと頑張ります。

僕はそのやり取りにとても感激しました。

自分も含め多くの日本の人は、英語がきれいな発音で話せないことや、文法通りに話すことができないことなどを理由に、英語を話すことを躊躇すると思います。しかし、本当に大事なのはきれいな英語を話すことや、正確な英語を話すことではなく、何を話すのかということと、それを何とか伝えようとすることではないでしょうか。

 

また、どう話すのかだけではなく、どう聞くのかということも大切だと気付きました。

話している人の英語がボロボロであっても、それを可笑しいと思ったり、下手とかダメだと思ったりすることは、無意味な事です。大事なのは、聞き取りにくくてもなんとか理解しようとする姿勢です。

 

英語というコミュニケーション"ツール (道具)"を使う際の目的はコミュニケーションを取ることです。そのため、一番大事なのは、どうやって伝えるかということと、どうやって理解するかということです。英語がうまいか否かによらず、コミュニケーションは取れます。

英語が下手なのを気にするのは、その目的と全く関係のないことです。「話すのをためらわないことが大事」ということは多くの人が理解していると思いますが、「下手な英語を聞いても気にしない」というのは、それほど馴染みのあることではない気がします。

他の人の下手な英語を気にしていると、今度自分が話すときに「下手な英語は話したくない」といった意識に繋がります。また「下手な英語だから聞き取れない」と考えてしまっては、コミュニケーションを取るという本来の目的を諦めてしまうことになったり、コミュニケーションを取る姿勢に重大な支障をきたしたりします。

下手な英語を気にするというのは、むしろ「コミュニケーションを取る」という英語を使う最終目的の障害にさえなります。この意識を捨てるということはあまり馴染みのない、隠された重要なポイントなのかなと思いました。

 

ほとんど自戒なのですが…